キャッシングの用語 ~3件ルール・提出書類・依存症関連のまとめ~

目次
この記事のまとめ
この記事は、下のような用語・トピックスをまとめています。
(話の流れから、ジャンルが飛ぶことがあったので、ここでジャンルごとに整理しました)
「専業主婦」関連
「3件ルール」関連
「ギャンブル&依存症」関連
「提出書類」関連
その他
「未成年」の借り入れ
未成年の借り入れについてポイントをまとめると、下のようになります。
- 働いていれば(勤続1年以上なら、ろうきんカードローンでお金を借りることができる
- 年収150万円以上、という条件
いきなり審査が厳しいものを紹介しましたが、代わりに―。
借入種別の評価が高いというのは、要するに「そこでお金を借りるということは、信用につながる」ということです。「北海道労働金庫さんが、融資しているような人なら」ということで、クレジットスコアが高まる…というわけですね。
こういう借入先からお金を借りているということは、それ自体が信用度の証…となるわけです。なので、良好なクレジットヒストリーとして記録され、その後クレジットカードの審査などを受けるときにも、審査通過しやすくなる…というわけなんですね。
もっと、簡単な方法はないのか?
もちろんあります。クレジットカードのキャッシングだったら下のようになります。
「ずいぶん少額だな」と思われるかも知れませんが―。
このようになっています。ショッピングだったら破産のリスクが低いですからね。現金で直接融資すると下のようになります。
などのギャンブルに使えてしまいますし―。
などの「投資」にも使えてしまうわけです。これらの「射幸行為」(偶然の幸運に期待する行為)は、特に借金で破産するパターンとして、多いものですからね。
(もちろん、株式投資などは「偶然の幸運」でなく、しっかり計算して成功できるものですが、それでも「お金を借りて」投資するような人だったら、偶然の勝利しかありえないわけです。「投資に生活資金をつぎ込む」というのは、投資で成功する人だったら、あり得ないことですからね)
他社借入の返済に使えないのも大きい
もう一つ、ショッピング枠よりキャッシング枠の方が安全な理由として、「他社借入の返済に使えない…というのがあります。大体わかると思いますが、多重債務者の方々がさらに借金をふくらませる原因として、「返済のために、さらによそのキャッシング業者からお金を借りる」というパターンがありますからね。「借金で借金を返す」ようになったらおしまい、と言われますが実際にその通りなのです。
これは別に、そうして返済不能に陥った借入超過者の方々を批判するものではなく―。
「最終手段」と書きましたが―。
- 自己破産をしても、生活は特に変わらない
- 仕事をやめる必要もないし、勤務先にも知られないし、戸籍にも残らない
- ヘタすると、家族にもバレない
また、その後のお給料も自分のものにしていいですし、貯金もできます。自己破産する時点で持っている資産(不動産や自動車)は、放棄しなければいけない…というだけです(もちろん、貯金ができるのは破産後であって、破産時の貯金は、やはり放棄します)。
唯一自己破産のデメリットがあるとしたら「宅建主任・警備員」などの資格が必要な職業が、数ヶ月できなくなる…ということです。これだけ、人によっては影響があるかも知れません。しかし、それ以外のデメリット・注意点は、特にありません。
なので、もうどうしようもないという状態の借入超過者の方々の場合、自己破産も含めた債務整理は、積極的に検討してください。
(個人信用情報に、いわゆるブラックリストとして記録されてしまいますが、借金返済で苦しんで闇金業者(ヤミ金)などでお金を借りるよりは、マシでしょう)
*ちなみに、クレジットカードの現金化業者などもヤミ金と同様に、反社会勢力がやっていることもある悪徳業者なので、手を出さないようにして下さい。
「スロット」での借金
スロットの借金は、下のサイトさんの体験談がおすすめです。↓
- パチンコの後悔 その2
- http://www.geocities.jp/pachimaya/koukai2.html
「パチンコ」となっていますが、スロットの借金の体験談も、同様に集まっています。他のサイトはいかにもやらせっぽいのが上位に出てきますが、このサイトさんでは、本当の「生身の声」を聞けます。
(もう10年以上前の書き込みですけどね。いつの時代もスロットで破産する人は、変わらないものです)
そして、いくつか引用しながら、補足をさせていただきます。
1年半ほど前迄、スロットにはまり、借金が150万超えた辺りで気づき今は禁スロをしています。
禁スロという単語は初めて聞きましたが、パチンコの場合は「禁パチ」と言うみたいですね。「金八先生」みたいですが。
この方の借金は、ギャンブルにはまった人としては少ない方です。パチンコ・スロットの借金は、200万円を超えるなんて普通にありますからね。
ただ、これはあくまで「借金総額」であって、実際に「スロットで負けた金額」というのは、もっと大きいはずです。最初は自己資金でやっていたはずですからね。
もし自己資金を50万円つぎ込んだとすると、やはりこの女性も「200万円」程度負けている…ということです。この辺は推測似すぎませんが。
7が揃ったときの快感を忘れられずに気がつけばどんどん 借金が出来ていました。
これも上と同じ女性ですが、この「揃った時の快感が忘れられない」というのは、ギャンブル依存症の方々が、多く口をそろえていうことです。これは、下の通りです。
- まともな人にとっては、「悪い刺激」である
- 「殺人」に興奮するのが「いいこと」でないのと同様、「興奮すれば、何でもいい」わけではない
こういうのは、誰でも知っています。しかし、何でそういう「悪い興奮」にハマってしまうのか。これは、下の通りです。
- 脳は、とにかく「大きい刺激」が欲しい
- 刺激の質が「良質か、悪質か」は関係ない
- 悪質でもいいので、とにかく「大きい刺激」が欲しい
これが、脳の性質なのです。意外かも知れませんが―。
- 脳が求めるのは、刺激の「大きさ」だけであり、「質」はどうでもいい
わけですね。この理由は、生物学的・医学的に説明できます。
脳が「大きい刺激」だけを好む理由
人間の武器は、脳です。狼にとっての「牙」です。なので、下のようになります。
- 「脳」を鍛えることが、生存につながる
- だから「脳を発達」させることは、人間の「動物的本能」である
これはわかりますね。そして、脳を「発達」させるにはどうすればいいか。
- 筋肉と同じで「新陳代謝」が必要である
- つまり「古い細胞」を破壊し、「新しい細胞」にする必要がある
これもいいですね。そして、下のように言えます。
- 「破壊」するには、「大きい刺激」が必要である
このようになるわけです。
- 今「すでにある」神経回路が、「耐え切れないくらいの電流」を流し、その神経回路を「焼き切らないと」いけない
わかりやすく言うと。
このくらい「強い刺激」が脳には必要なので、人間は「あきる」んですね。「美人も3日見れば飽きる」というのは、そういうことなのです。男が云々ではなく、「脳の構造上、そうなっている」のです。
これを「ネオフィリア」といいます。「新しいものを、好む性質」ということです。
- ネオ…新しい
- フィリア…愛好症
こういう意味です。ちなみに、「ネオ」の部分が変わると、下のような愛好症状(フェチズム)になります。
- ペド…小児
- ネクロ…死体
「ペドフィリア」「ネクロフィリア」という単語は、ホラーなどでもよく使われるので、聞いたことがある人も多いでしょう。このせいで「フィリア」というのは、何となく怖い単語のイメージがありますが、要は「愛好する」という意味なんですね。
(愛好する、という単語がこうして怖い方に発達するのを見ても、人間がいかに、悪質でもいいので、大きい刺激だけを求めるかということを、象徴しています)
このように、人間は医学的な理由からも「大きい刺激」をひたすら欲しがるのです「大きい刺激=いい刺激」と錯覚してしまうわけですね。
こういう医学的な知識があれば―。
- 自分が「気持ちいい」と感じても、それが「本当は必要でない」ということを、科学的に理解できる
- その時点で、理性を司る「大脳新皮質」が作動するので、より「少ない労力」で、その行動に「ストップ」をかけやすい
実は「理性的」な人は、案外「楽」をしているのです。彼らは、理性的な行動をとるのに必要な「大脳新皮質」が「作動しやすくなっている」ので、「ほんの少しの労力」で、理性的な行動をとれるんですね。それが「習慣」だからです。
(習慣というのは、医学的にいうと「その行動をする時に使う神経回路や筋肉、脳の部位が、発達している…ということです。習慣は「科学」なのです)
私の場合は半年ほど毎日スロットをしたり、新装の日は何時間も並んだり・・今思うとどうかしてましたが・・・
これも同じ女性です。「半年ほど毎日」というのがキーワードです。(勝手に分析してしまって、申し訳ないですが、「同じような失敗をする方が減る」というのは、この女性の書き込みが「最も生きる、良い形」だと思うので、そのために紹介させていただきます)
この女性は、書き込みを見る限り、「元は、決して頭の悪い人ではない」と感じます。150万円で止めたのも、むしろ早い方ですしね。
しかし、それでもスロットにハマってしまったのは「一定期間続けた」からです。「習慣は、第二の天性なり」という言葉もありますが―。
- いいことでも悪いことでも、一度「習慣」になると、人間は「どんなことでも、平然と」
やってしまうものです。千日回峰行という比叡山の修行もそうなのですが、「一度習慣になったこと」は、人間に簡単に「限界を超えさせる」んですね。
これは、上のスロットの女性のような「ギャンブル依存症」になると、悪い方に出てしまいます。しかし、イチローや、サッカーの長谷部誠のように「いい方に使う」と、とんでもない力になるわけです。
なので、上の女性の体験談の「半年ほど毎日」という部分は「そういう哲学・心理学」が背景にある、と捉えることもできます。
以上、「スロットでの借金」についてまとめてきました。ギャンブルでも何でも、借金地獄にならないためには―。
- とにかくいい習慣だけを身につけ
- 悪い習慣を「上書き消去する」
こういうことが大事です。(そのままでは消去できないので、何かで「上書き消去」するのです)
「3件ルール」とは
3件ルールとは「3件規制」とも呼ばれます。
- 3件までは借りていい
- 4件目からは、借入不可
こういうものですね。「消費者金融連絡会」という、消費者金融の大手によって1997年に結成された組織が「自主的に」決めたルールです。
なので、貸金業法や銀行法などで決まっているルールではないんですね。
具体的に、この3件ルールがどのように守られているかは、『これからの消費者金融のあり方とは』という論文でわかります。(詳しくはクリックで読んでみて下さい)
「消費者金融連絡会」とは
- 1997年2月に、消費者金融の「大手5社」が、「消費者金融5社連絡会」という名前で結成
消費者金融の「大手5社」とは?
この「1997年」の時点では―。
でした。
レイクが加入して「消費者金融連絡会」に
最初は「5社連絡会」だったのですが、結成から3ヶ月後の「1997年5月」に、「ほのぼのレイク」が加入します(今の新生銀行カードローン レイク)。
そして、名前も「消費者金融連絡会」と改称。この6社(プロミスは今ではSMBCコンシューマーファイナンスのブランド)の頭文字をとって、TAPALS(タパルス)とも呼ばれました。
- T…武富士
- A…アコム
- P…プロミス
- A…アイフル
- L…新生銀行カードローン レイク
- S…三洋信販
こういう風ですね。ちなみに、このTAPALS(タパルス)という名称は、消費者金融連絡会が公式に使っていた略称で、テレビCMでは「タパルス博士」というキャラクターも登場していました。
ちなみに、このTAPALS(タパルス)の「順番」ですが―。
- 本店所在地が「東にある順」で並べたもので、規模の順番ではない
(当時最大手が武富士だったので、「規模の順番」と思われがちですが)
そして、終盤の消費者金融連絡会の流れについては下の通りです。
- 2003年に、レイクが脱退
- その後、2009年4月30日に、消費者金融連絡会も、サイトを閉鎖
ちなみに、レイクが脱退した理由ですが―。
- 1998年から、GEキャピタルの傘下になったので、その影響かも知れない
ということが指摘できます。(事情はもちろん、わかりませんが)
「年収の3分の1以上」のキャッシング
「年収の3分の1以上」借り入れするということは、つまり貸金業法第13条の2第2項の規定を超えるということ。これは、違法な貸金業者がやることではなく―。
- 合法的に、「貸金業法第13条の2第2項の規定の範囲外(例外・除外含む)」として認められる
- 融資の種類がある
どんな融資かというと、下の通りです。
などです。それぞれの内容は下の通りです。
「配偶者貸付」とは
配偶者貸付とは、夫婦の年収を合算して、その年収の3分の1まで借り入れできる…というルールです。ポイントをまとめると、下のようになります。
- 専業主婦でも、あるいは男性でも、どちらが使ってもいい
- ただ、基本的に「女性」の方が収入がないので、大体「女性のためのルール」になっている
さらに箇条書きすると下のようになります。
大手の消費者金融でも―。
と呼ばれるような女性専用ローンは提供しているのですが、それはあくまで―。
- 働いていて年収・月収がある、会社員・OLの女性か、あるいは「パートの自分の収入がある女性」のためのものであり、収入のない既婚者の女性のためのものではない
そのため、家庭に入っている女性(自分の収入があることが条件)がお金を借りたい時は、銀行カードローンで借りる…ということになります。特に「配偶者の同意書なし」でOKな銀行カードローンだと、夫・旦那の同意書の提出によって夫バレ・旦那バレすることもないので、こうした銀行カードローンで審査を受けるのがいいでしょう。
「配偶者の同意書」とは
配偶者の同意書とは「結婚相手の同意書」です。別に借入審査でなくても、何かしら「婚姻相手の許可がいる」時にもらうものです。
そして、上に書いた配偶者貸付の場合は、文字通り「配偶者のお給料」が関わるものなので、本人の許可をとる必要があります。大体の場合、配偶者貸付は「収入のない既婚者の女性」が使うものなのので、配偶者の同意書は、ほぼ「夫・旦那の同意書とイコール」になっています。
配偶者の同意書というのは、当然偽造するわけにはいかないので、これをもらう段階で―。
- 夫・旦那にキャッシングの相談をする必要があり、それによって「必ず夫バレ・旦那バレする」
こういうことになります。なので、夫・旦那に内緒でお金を借りたい、という女性の場合は、下のような「配偶者の同意書なし」でOKな銀行カードローンで借りるといいんですね。
こういう銀行カードローンです。これらの銀行カードローンでもその女性の借入・返済の履歴などの諸条件によっては、配偶者の同意書の提出が必要になることもありますが、基本的にはなしで大丈夫なようです。
キャッシングの「夫バレ・旦那バレ」について
自分の収入がある女性の女性がお金を借りる時、一番気になるのは「夫バレ・旦那バレするのではないか」ということでしょう。しかし、下のようにも言えます。
- 夫・旦那の同意書なしでOK、という銀行カードローンだったら、提出書類などで夫・旦那にバレることはないし、審査の電話確認で、自宅に電話がかかることもない
- また、ローンカードなどの郵送物もなしにできる
こういうことで、基本的に「夫バレ・旦那バレはない」のです。では、どういう時にバレるのかというと、下の通りです。
逆に言えば、そういう遅延・延滞をしない限りは、自分の収入がある女性の女性がキャッシングをしても、夫バレ・旦那バレすることは、まずない…というわけですね。
「女性」のキャッシング
女性のキャッシングというと、女性専用ローンを思い浮かべる人も多いかも知れません。これはもちろん、女性のおすすめできる借入方法ですが―。
このような点は注意してください。
- オペレーターさんが全員女性になる
- サイトデザインが女性向けで、心理的抵抗が少ない
このような点を除けば、レディースローンというのは「普通のキャッシング」なんですね。これは否定しているわけではなく―。
- 過剰な期待を抱くとがっかりして、レディースキャッシングの価値を、かえって正しく評価できないので、正しい情報を、知っておいていただきたい
ちなみに、「審査が甘いレディースローン」というのもあるのですが、下のように言えます。
のために作られたものです(すべてがそうではありませんが「審査がゆるい」というのを売りにする時点で、そのような怪しいキャッシング業者だと思ってください。
なので、レディースローンでお金を借りるのであれば、アイフルが提供するSuLaLi(スラリ)などの「しっかりした借入先」で借りるべきだし、その場合、特に低金利になったり、審査に通りやすくなったりする…ということもないわけです。
「ギャンブル依存症」とは
ギャンブル依存症とは「賭博に対する依存症。精神疾患の一つ」です。ポイントをまとめると、下のようになります。
- 英語…gambling addicttion
- ただ、ギャンブルにハマるだけではなく、それによって借金や人間関係の崩壊など「生活上の問題」が起きている
これが条件です。(条件というのも変ですが)
医学的に公式に認められているのかというと、下の通りです。
- DSM-5(精神障害の診断と統計マニュアル第5版)
- ICD-10(疾病及び関連保健問題の国際統計分類第10版)
などの診断基準には「ギャンブル依存症」という言葉は表記されていません。そのため、医学的にはこの単語を使う場合は「いわゆるギャンブル依存症」という風に表現します。
そして、正式名称では―。
- ギャンブル障害
- ギャンブリング障害
- 病的ギャンブリング
- 病的賭博
キャッシングの「オペレーター」
キャッシングでオペレーターさんとやり取りする場面は―。
この2つが主になります。その他は―。
などです。特に増枠については下の通りです。
こういうことがあります。つまり、「山田さんは、しっかりご返済してくださっているので、与信枠をさらに50万円まで拡大できますが、いかがですか?」というような打診ですね。
これは受けてもいいし、断ってもいいですが、借り過ぎが心配な人は、ことわった方がいいでしょう。逆に何かの事情で、今後急にお金が必要になるかも知れないという人は、そのまま限度額を増やしておいた方がいいかも知れません。
「収入のない既婚者の女性」の借り入れ
配偶者貸付などでも書いてきましたが、家庭に入っている女性(自分の収入があることが条件)でもキャッシングはできます。ポイントをまとめると、下のようになります。
このようになっています。夫・旦那の収入証明書なども必要ありません。必要書類としては、下の通りです。
なぜそれだけで審査通過できるのかというと、下の通りです。
- 女性が収入のない既婚者の女性として生活している家庭なら、夫・旦那が平均年収程度は、必ず稼いでいる
- そういう「普通の生活」をしている家庭なら、30万円や50万円程度なら、ほぼ確実に完済できる
なので「結婚証明書」だけ提出できればOK…ということなんですね。ちなみに、住民票以外の書類でも―。
「夫・旦那の収入証明書」について
家庭に入っている女性(自分の収入があることが条件)がお金を借りる時も、夫・旦那の収入証明書は不要です。源泉徴収票、もしくは確定申告書・所得証明書などの年収確認資料ですね。なぜこれらの書類を提出しなくてもいいのかというと、下の通りです。
- 先に書いた通り、嫁・妻が家庭に入っている女性という時点で、夫・旦那がしっかり働いている…という証明になる
このようになるわけです。
なので、別に年収証明書を出さなくてもOK…ということなのです。
「年収証明書」とは
カードローン審査の年収証明書とは、下のように言えます。
このように言ったものです。要は「何でもいいので、とにかく年収がわかるもの」です。給与明細書は、公的な書類じゃないから、ダメなんじゃない?」と思う人もいるかも知れません。これは鋭い指摘ですが―。
もちろん「両方ある」のが理想なので、その人の信用度などに不安がある時は「両方求められる」ということが多いです。
「年金証書」とは
年金証書とは「年金を受け取る権利・金額を証明する書類」です。年金受給者・年金生活者の方々がキャッシングをする時は、特に「支給額」が重要になるわけですが―。
- 支給年金額
- 年金額の内訳
- 各期支給額
- 初回支払額
- 初回支払い年月
などのデータが、すべて年金証書に書かれています。なので、これを見て、金融機関の側は審査をするわけですね。
年金証書の詳しい見方は、Google画像検索「年金証書」で、画像をご覧ください。↓
https://www.google.co.jp/search?q=年金証書&tbm=isch
ちなみに、銀行カードローンはともかく、消費者金融の場合は年金以外の収入が必須というのが条件になっているので、年金以外の収入がない(アルバイトをしていない)という高齢者の方々は、基本的に融資不可…と思ってください。
「納税通知書」とは
納税通知書とは、「その年の住民税がいくらかを通知する書類」です。
- 都道府県民税
- 市区町村民税
こういう、2種類の「地方税」のみ、納税通知書があります。所得税については下の通りです。
- 会社員・OL・公務員だったら、会社が勝手に納税しているし、個人事業主・自営業・会社代表者・法人経営者だったら、自分で計算して、自分で納税するので、「所得税・消費税の通知書はなし」
「いや、所得税の通知書、もらったよ」という人もいるかも知れませんが―。
- それは「口座振替」での支払いにした場合である
- それだと「いついつ引き落とします」という、「連絡のハガキ」が確かにくる
私も今年来たので、これはわかります。何にせよ、その納税額を見れば、その申込者の年収がわかるので、それでキャッシング審査の年収証明書になる…というわけですね。
「習慣は、第二の天性なり」
特にギャンブル依存症が典型ですが、借入超過者の方々がそうなる原因は、とにかく「習慣」にあるのです。習慣を改善することで、どれだけ破産のリスクを下げられるかという参考として、有名な「習慣は、第二の天性である」という言葉の由来・出典を解説します。
(実は、由来をたどるつもりはなかったのですが、ネットで書かれている「由来」が間違っていたので)
そして、この言葉の由来は下の通りです。
エウエノス(紀元前5世紀の詩人)
「習慣は、第二の天性なり」の言葉の出典・由来は―。
- 紀元前5世紀
- ギリシャの詩人・エウエノス
です。彼の下の詩が由来です。
そは友よ、習いの年経(ふ)りしにて
年経りてはついにひとの性(さが)たる
「習慣は、年を経るほど、その人の性(さが)になっていく」という意味ですね。
アリストテレス『ニコマコス倫理学』
上のエウエノスの詩は、そのまま残っているわけではありません。
- 紀元前4世紀の学者、アリストテレスが
- 『ニコマコス倫理学』の中で、この詩を引用している
これが、現在確認できる「出典」です。
そして、その引用部分でアリストテレスが何と言っているかと言うと、下のようになります。
まことに習慣が変えがたいということも、それが抜きがたい自然本性というものに似ているところからきているのであって、その点、エウエノスもいっているごとくである。
となります。(この後で、上の詩が引用される…ということですね)
アリストテレスの言葉を要約すると下のようになります。
- 習慣が変わらないのは、ほとんど「自然の本性」に近いからだ
つまり、「習慣は、第二の本能」と言っているわけですね。これが―。
- 「習慣は、第二の天性である」という言葉に
- 「もっとも近い言葉」が
- 「文献」として、最初に確認されているもの
ということです。
キケロの『至善至高論』ではない
この「習慣は、第二の天性である」という言葉の出典は、キケロの『至善至高論』と、多くのサイトに書かれていますが、これはあまり正しくないです。というのは、下のような理由です。
- そもそも『至善至高論』という書物を
- キケロは書いていない
- 一番近いのは『究極善悪論』(善と悪の究極について)
- だが、その中でも、上のアリストテレスや、エウエノスのように
- 「習慣は、第二の天性である」に近い言葉は、残していない
ということです。「究極善悪論」は、こちらのサイトさん(http://members.tripod.com/shin_ueda/stoics/cicerofin.html)で全文を読めます。
これを読んで言えることは、下の通りです。
- 確かに「習慣は~」に近いことを
- 「全体として」は言っている
- しかし、明確に「一文で」言ったものはない
なので「第二の天性」の出典としては、下のどちらかを挙げる方が正しいといえます。
- エウエノスの詩
- アリストテレスの『ニコマコス心理学』
年代についても、キケロより二人の方が、下のように古いですしね。
- エウエノス…前5世紀
- アリストテレス…前4世紀
- キケロ…前1世紀
キケロ『究極善悪論』で、習慣について書いている部分
キケロの『究極善悪論』(至善至高論)の中で、「習慣は、第二の天性である」に近い部分を引用させていただきます。
- キケロ『究極善悪論』(CM2S研究室・日本語版)
- http://members.tripod.com/shin_ueda/stoics/cicerofin.html
読み方は―。
- 灰色部分…引用
- その後の部分…要約、それから補足(要約が不要な時は、そう書いてあります)
そして、最初に書いておきますが、少々長いです。というのは、下のような理由です。
- アリストテレスなどと違って、キケロは「習慣は~」と、一言で言っていない
- (別に、言おうとしていない)
- どちらかというと、キケロが「習慣は~」と
- 「言った」証拠でなく
- 「言っていない」という証拠
こう思ってください。意味的には言っているが、一言で「名言」として引用できるような部分は、一つもないということです。
4巻7章17節
社会生活のために人々の結び付きを求めるのであり、全ての言行に留意して美徳にかなわないことや麗しくないことがないようにする
- 「生きるため」に、群れの仲間との関係が必要
- 「関係」のために、好かれることが必要
- 「好かれる」ために、正しい言動が必要
こういう「生存本能」によって、人は「正しい言動」を取るようになる…ということです。
6巻6章21節
つまり、人が最初にもつ親しみは自然に従うものに向いているのである。
つまり、すべては「自然の本能」から始まるのです。
しかし、知力やあるいはむしろ概念(あの人々はギリシャ語で「内在観念」と呼んでいるが)を獲得し、行われるべき物事の秩序(私は協調と言いたいが)を見ると
- そうして「本能」から始まっても
- 「正しい生き方」に触れると、人は―。
ただちに、この秩序をこそ、人は自分が最初によしとした全てのものよりもはるかに高く評価するものなのです。
- その「正しさ」こそ
- 人間の「どんな本能」より
- 「大切なもの」だと思うのだ
これも「第二の天性」に近い内容です。(それでもやはり、アリストテレスなどの言葉の方が「習慣は、第二の天性である」に、遥かに近いですが)
6巻7章23節
誰かに紹介された人が、紹介した人よりも紹介された人の方により親しくなるということがしばしばあるように、
(これは解説不要)
初め我々は自然の入り口から知恵に導かれたのだが
- はじめは「自然の本能」から始まった
- (集団に嫌われたくない、という本能から始まって)
- そして「正しく生きる」ようになった
しかしその後で知恵へのこの通路よりも知恵そのものの方が我々により親密なものになるというのも何ら驚くことではない。
- いつの間にか、「人に好かれる」という本能より
- その「正しさ」の方が上に来ることは、何も不思議ではない
具体的にいうと正義のために、暗殺されるのも厭わなかった、ガンジーやキング牧師などは―。
- 一見「自然の本能に反している」ように見える
- しかし、上の「紹介された人~」の例のように
- こういう「逆転現象」が起きることは、何ら不思議ではない
つまり、ガンジーもキング牧師も―。
- 一見「不自然な人生」に見える
- しかし、やはりスタート地点は「自然の本能」なのだ
これも「第二の本能」に近い内容です。
(普通とは「まったく別の、生存本能」が、彼らの中に生まれた…ということですね)
4巻5章12節
何らかの第5の本性があるように思われるのであり、理性と知性はそれから生ずる。
これは、そのまま読めるでしょう。
この「第5の本性」というのが、ここまでの文脈からすると「習慣」だと推測できます。(当のキケロが断言していないので、こちらも断言できませんが)
「第5」というのは「前の4つ」は何なのかというと、下の通りです。
- ストア派という哲学の流派がある
- 彼らは「世界は、4つのものから構成されている」と語った
- しかし、「それとは別の、5つ目があるのではないか」と、キケロは語った
ということです。この「4つの要素から~」というのは「ストア範疇論」と呼ばれるものです(詳しくはWikipediaで)。
6巻11章38節
立派な家庭でしつけられ素直な教育を受けた人は恥ずべき行為に、例え彼に将来何の害も与えないとしても、衝撃を受けないだろうか。
- 立派な教育を受けた人は、「恥ずべき行為」を見ると、絶対に「不快感」を覚える
- たとえそれが、彼に害を与えることがなくても
このようになるわけです。
- 「自然の本能」だったら、「自分に害がなければ、関係ない」はずなのに、こういう時に「不快感」を覚えるなら、やはり「教育」によって、人間には、「第二の本能」が生まれるのだ
なので「意味的には」、これも「習慣は、第二の天性である」ですが、やはり「一言で言っている」わけではありません。
まとめ ~キケロと「習慣は、第二の天性である」~
以上、再度結論をまとめると、下のようになります。
- 「習慣は、第二の天性である」の出典・由来は、キケロではない
- 『至善至高論』という書物もないし、それに近い『究極善悪論』でも、「全体の意味」として言っているだけで、一言で「習慣は~」とは言っていない
このようになるわけです。
- エウエノス・アリストテレスの方が、ハッキリ「一言」で言っているし、年代も数百年古いので、こちらが本当の出典である
このようになるわけです。
補足 ~何で「キケロ」が出典となっているのか~
これは「コトバンク」でそう書かれているからです。
- コトバンク「習慣は第二の天性なり」
- https://kotobank.jp/word/習慣は第二の天性なり-526405
〔キケロ「至善至高論」〕
身についた習慣は,生まれつきの性質におとらないほどその人の生活に影響するものです。
この解説は「大辞林 第三版」から来たものですが、下のように言えます。
- 大辞林は、「キケロがそういう言葉を残した」と言っているのではない
- 「習慣は、第二の天性である」とは、「身についた習慣は~」という意味ですよ、と
- 「大辞林の言葉」で意味を書いる
- 「たとえば、キケロの書物に、そういう内容がある」
と言っているだけです。『至善至高論』という書名を使ったのだけが、少し理解できませんが、人によってはそういう呼び方をするのかも知れません。
何はともあれ、下のように言えます。
- 別に、大辞林やコトバンクが間違っているわけではない
- ただ、それを拡散する人は、せめて「至善至高論」という本があるのかどうかくらい、検索して確かめた方がいい
ディオゲネスと「習慣は、第二の天性」
「習慣は、第二の天性である」の出典は「ディオゲネスである」という説もあります。これは、下の通りです。
- 彼も「それ的」なことは言っている
- ただ「一文で」は言っていない
- ↑(少なくとも、日本語で確認できる資料はない。アリストテレスなどは、ある)
そして、彼の場合は「悪い意味」で使ったんですね。(下のように)
- 人間の世界は「どうでもいい慣習」に満ちている
- 明らかに不自然で、全然気持ちよくないのに
- こんなのを我慢できるなんて、これはもはや「第二の天性」だ
もしディオゲネスがTwitterをやっていたら、「習慣は、第二の天性(笑)」という風に「笑」つきでつぶやいていたでしょう。
(そして、沢山RTされていたでしょう)
ディオゲネスの言葉を、文献で見ると?
先ほどのキケロの『究極善悪論』が、ちょうどディオゲネスの言葉を紹介しています。引用しましょう(出典は同じです)。
ディオゲネスに同意するのだが、彼は善を定義して「自然に従って完成されたもの」と言っている。
- 私(キケロ)も、ディオゲネスに賛成だ。
- 彼は「善とは」という定義を
- 「自然から生まれたもの」とした
これは上に書いた「世間の慣習の否定」です。「大衆の慣習は、何と不自然なことか!」というわけですね。
そして、続きはこう書かれています。
またそれに続いて、有益なものを今度は「自然に従って完成されたものに由来する運動や状態」と言ったのです。
これは要約というより、解説になりますが、下の通りです。
- 一番有益なのは「自然」である
- たとえば「健康」である
- その次に有益なのは
- あくまで「自然・健康」などの欲求から生まれた
- 「より高度なもの」である
赤ちゃんを例にとると、わかりやすいでしょう。
- 赤ちゃんにとって
- 「一番大切」なのは
- 乳を飲むこと
- 寝ること
- 抱かれること
です。そして、これが満たされて「満足」したら、
- 赤ちゃんは「冒険」に出かける
- 要するに「ハイハイ」をする
- あれこれ触ったり、声を出したりする
- そうして「高度な活動」を修得していく
ここで赤ちゃんは―。
- 誰かと「競争」しているわけでもない
- 何か「高尚な真理」を求めているわけでもない
- ただ「自然な本能」で「冒険」をしている
こういうわけです。ディオゲネスが言う「次に有益なもの」というのは、こういうことなんですね。
- 赤ちゃんにも「習慣」はある
- しかし、それは「自然の欲求」から生まれたもの
- 「無理・嘘のない」ものである
- そういう習慣であれば「善」である
つまり、ディオゲネスは―。
- 「習慣」については
- それが「不自然」だったら「悪」とした
- しかし「自然」なものなら「善」とした
パスカル『パンセ』の習慣論
「習慣は、第二の天性である」という言葉を、初めて「ほぼそのまま」書籍に書いたのは、パスカルの『パンセ』でしょう。
以下、引用しながら解説させていただきます(引用元は下の論文です)。↓
- 主題…『パスカルにおける自然と習慣について』
- 著者…三宅中子(明治学院大学・学習院大学講師*2003年時点)
- 出典…学習院学術成果リポジトリ
- URL…https://glim-re.glim.gakushuin.ac.jp/bitstream/10959/2321/1/kenkyunenpo_16_1_36.pdf
(引用部分は、著者の三宅氏の言葉ではなくパスカルの言葉です)
習慣は第二の自然であって、第一の自然を破壊する(断章93)
「第一の自然」というのは「持って生まれた本能」のことです。「習慣は、本能すら超える」ということですね。
「習慣は我々の本性です。(中略)我々の霊魂も、数、空間、運動をみることに慣れたため、それを信じ、それだけしか信じないのであるということを、誰が疑うであろう」(断章89)
これも「習慣は、第二の天性である」にきわめて近い言葉です。
- 「数字」とか「空間」のような「常識」を
- 「赤ん坊」は、まったく信じない
- しかし、「大人」はそれを信じる
- これは、「習慣」の産物である
ということです。
我々の自然的原理というものは、我々がそれに習慣づけられた原理(nos principes accountumes)でなくて何であろう。(断章92)
人間の「自然な行動」なんて、所詮「全部、習慣」ではないか?と言っているわけです。
そして子供たちにおいても、動物における獲物追及のように、父親たちの習慣から受け継いだものでなくて何であろう。異なる習慣は、我々に異なる自然的原理を与えるであろう(断章92)
これは「習慣」の中でも、特に「教育」について語った部分です。
「習慣の力というものは、実に偉大なものなので、自然がただ人間としてしか作らなかったものから、人々はあらゆる身分の人間を作り上げたのである」(断章97)
これはディオゲネスが否定した「悪い習慣」とも重なります。
- 本来の自然に背く「変な常識」のこと
- そういう「変な常識」が
- 人間の世界の「身分」を作っている
あえて下品な例を書くと「ロリコン」もこれに該当します。
- 本来、生殖できない年齢の「子供」に興奮するのは
- そういう「習慣」によって生まれた「第二の本能」である
- 「性欲は本能」と言われるが
- こういう性欲は、もはや「本来の本能」ではない
ということですね。
(ちなみに、14才あたりからは、もう「生殖」できるわけなので、不自然ではないと思います。その年代「だけ」というこだわりを持つなら、それは異常ですが)
われわれは精神であるのと同程度に自動機械です。
習慣は自動機械を傾けさせ、自動機械は精神を知らず知らずのうちに引きずっていく。
(
断章252)
これは、下のような意味です。
- 人間は「機械」である
- この機械は「習慣」で動く
- 動いた機械が、さらに「習慣」を作る
- 無限ループで、この習慣が強化される
- いつの間にか、それが「精神」になる
ということです。ちなみに、この「人間機械論」は、マーク・トウェインの「人間とは何か」のメインテーマでもあります。この本でマーク・トウェインは、下のような主張をしています。
- 環境によって、人間の欲望が「作られる」
- 人間んは、それに従って動くだけの「機械」である
- 欲望といっても「享楽的」なものもあれば
- 逆に「禁欲的に生きる」という欲望もある
- しかし、どちらでも同じである
- 「環境によって作られたプログラム」に従って動く、ただの機械である
ということです。ちなみに、マーク・トウェインは、言わずと知れた下の名作を書いた小説家です。
- トム・ソーヤの冒険
- ハックルベリー・フィンの冒険
- 王子と乞食
こういう「子供向けの明るい物語」を書いていた彼が、実は「人間機械論」の信奉者だったんですね。
我々をその信仰で染めあげるために、この習慣の助けを借りなければならないのです。
なぜなら「証拠」をいつも目の前におくのは、大仕事すぎるからです。(断章252)
- 何かを追い求めるなら
- 「習慣の力」に頼るべきだ
- 「信念」だけで自分を奮い立たせるのは
- あまりに難しいからである
思い当たる人が多いでしょう。
- 「やる気!」とか
- 「何が何でも!」という気合いは
- ハッキリいって「続かない」
ということですね。本当に「それをやらなければいけない」と思うなら―。
- 「習慣化」することを、第一に考える
- 「自らを奮い立たせる」ことなどしなくても
- 「勝手にやってしまう」環境を整える
こういう努力をするべき…ということです。だから、平安時代から、修行僧たちは「比叡山」に籠ったわけですね。比叡山では「正しく生きるしかない」からです。
我々はもっと容易な信仰、すなわち習慣(habitude)による信仰を獲得しなければならないのであって、
「容易」という言葉に注目してください。「信仰」というと「苦行」のように「辛いことに耐える」というイメージがありますが、パスカルの説く信仰は、逆に「簡単」なんですね。
それは我々を無理強いなしに、技巧なしに、論議なしに物事を信じるようにさせ、
我々の全能力をそれに傾けさせ、
そのようにして、我々の魂が自然にそこに落ち込むようにするのである(断章252)
たとえばホリエモンは、出所してからしばらく「腕立て伏せを、毎日しないと落ち着かない」体になっていたそうです。以前の彼からしたら考えられないことでしょうが、そのくらい「腕立て伏せも、習慣にすると簡単になる」ということです。
普通の人だったら「たかが腕立て伏せ」かも知れませんが、ホリエモンが「そういう体になった」というのが、すごいのです(笑)。
こういうパスカルの言葉を見ると、下のようになります。
- 「習慣は、第二の天性である」という言葉は
- 老荘思想の「無為自然」にも近い
と言えるでしょう。