奨学金という借金をして、大学に通う意味はない ~「サラ金より悪質」は間違い~
学生が奨学金という借金をしてまで、大学に通う意味はあるのか―。私の結論は―。
- 意味ない
- しかし、奨学金が悪いわけではない
- もう「大学に進学する」価値自体がなくなっている
そして、進学せずにどうするのかというと、下の通りです。
- 専門技術を身につけて働く、か
- 雇われると「高卒・中卒」は限界があるので、さっさと独立するのがいい
「んな無茶な」と思われるかも知れませんが―。
- そもそも仕事というのは、何か仕事をしてお金をもらう、というのが基本形で、雇用形態とかそういうのは、どうでもいい
戦いでいうなら「要は相手を倒せばいいい」「武闘家として、筋の通った生き方であればいい」という、ブルース・リーの「ジークンドー」の思想です。
これは歴代の偉人の言葉で表現すると下のようになります。
- 老子…上善如水(上善は水の如し)
- 孫子…兵の形は水に象る
- 松下幸之助…融通無碍(素直な心)
などとなります。いきなり哲学的な話になりましたが、以下、なぜ上のような結論になるのかを説明していきます。
目次
「奨学金はサラ金よりも悪質」という指摘
2013年の11月に、下の記事が話題になって奨学金はサラ金より悪質という主張が、多くシェアされるようになりました。
- 日本学生支援機構の利息収入は232億円――奨学金はサラ金よりも悪質
- URL…http://blogos.com/article/74107/
まず、この記事の内容を要約していきましょう。まずざっと箇条書きしていきます。
- 「反貧困全国キャラバン2013」のシンポジウムが開催された
- そこで、若者の貧困の問題に詳しい、中京大学の大内裕和教授が登壇した
大内裕和教授の指摘の要約
そして、大内教授はどのようなお話をされたのかというと、下の通りです。
- ほとんどの奨学金は、利息付きの「第二種」である
- 無利息の「第一種」は「成績優秀者」しか貸与されないので、多くの若者は「二種」の奨学金を借りている
これは大学生だったらみんな知っているでしょう。そして、その利息・金利について―。
- たとえば、毎月10万円借りたとする
- 利率は3%である
- 返還総額は646万円
- 毎月の返済額は2万7000円
- このペースで返済しても、完済まで「20年」
つまり、簡単に書くと下の通りです。
- 「毎月10万円」借りたら、「元本だけ」なら、480万円である
- しかし「返還総額」は646万円になる
- つまり、「166万円」の利息が発生する
そして、返済は―。
- 毎月「2万7000円」払い、「20年」かかる
こういうわけですね。毎月「2万7000円」というのは、かなり大きな金額ですが、それだけ返済しても、20年かかると指摘されているわけです。
(実は金利の設定が間違っているのですが、それは後で説明します)
さらに大内裕和教授のお話の内容をまとめていくと、下のようになります。
- これでは非正規雇用の仕事しかできない若者には、とても返済できない
確かに、若年者の非正規雇用が多くなったというのはその通りです。そして、下のように言えます。
- 借り入れの返済の順番は、延滞金→利息→元本、となっている
- なので、いつまで経っても元本が減らない
このようになるわけです。
延滞金・利息から返済していくのは、当然である
少しでもものを考える人なら、これを読んですぐそんなの当たり前だろと思ったはずです。
- お金を借りた
- 利息が発生した
- 返済日が来た
となった時、その返済日に、元本と利息、どちらから払うかといったら「利息」に決まっています。住宅ローンでも何でもそうでしょう。
そして、さらに延滞金が発生していたなら、そもそも遅延・延滞した本人が悪いわけですから、これも「延滞金から払う」というのは当然のことです。
(住宅ローンや自動車ローンでも、遅延損害金から払っていきます)
なので、ここに書かれているのは「完全に当たり前」のことです。これを「こういう順番なので、いつまでも元本が減らない」などと書くと、まるで「奨学金のシステムが悪い」みたいですが、実際には「当たり前」なんですね。
夫婦で奨学金の返済を抱えていたら…
大内裕和教授のお話をさらに続けると―。
- そうして総額646万円の奨学金を抱えた男女が、そのまますぐ結婚したとすると、夫婦で「1300万円近くの借金を抱える」ことになる
と指摘されています。これはもちろん、その通りです。結婚したら、収入も合算されますが、負債も合算されるということです。
つまり、この点でも奨学金でお金を借りるというのは危険なんですね。つまり「結婚しにくくなる」ということもあり得るわけです。(男女ともに)
私自身は結婚願望がないので、そんなに結婚が大事とは思いませんが、若いうちに結婚したいと思っている方にとっては、これは結構重要な問題でしょう。
ちなみに、この返済総額は間違っている
ちなみに、こうして「借り入れが合算される」というのは正しいのですが「返還総額」については間違っています。理由は下の通りです。
- 大内裕和教授は「年率3%」で計算しているが、実際の奨学金は、こんなに高金利ではない
- これはあくまで「上限金利」である
- つまり「世の中の金利情勢が、どれだけ高金利に偏っても、奨学金は3%以上にしてはいけない」という意味の金利
そして、実際の金利は下のようになります。
- 大内裕和教授が発言された2013年11月の時点で、変動金利…0.20%(実質年率)
- 固定金利…0.89%(実質年率)
大内教授の前提では「3.0%」なので、下のようになります。
- その時点の奨学金の金利の、「15倍」か、「3倍」で計算している
そのため、実際には、もっと返還総額が小さくなるんですね。(それも大幅に)
じゃあ、いくらになるのか
- 変動金利…0.20%(実質年率)
- 固定金利…0.89%(実質年率)
の、それぞれで計算すると下のようになります。
- 変動金利…490万800円
- 固定金利…526万1760円
どちらも「元本は480万円」(毎月10万円×4年間)なので、利息だけ書くと下の通りです。
- 変動金利…10万円800円
- 固定金利…46万1760円
カンタンに書くと下の通りです。
- 変動金利…10万円
- 固定金利…46万円
の利息しか発生しないんですね。「480万円」という高額を借りても。
そして、これを「20年間」で返済するわけなので、単純計算で、「1ヶ月の利息」は―。
- 変動金利…416円
- 固定金利…1916円
計算して自分でも驚きましたが―。
- 「480万円」という高額を借りて、月「400円~2000円」の利息しかかからない
こういうことなのです。これはクレジットカードと比較しても、恐ろしいほどの低金利です。
- クレジットカードなら、「10万円を1ヶ月」借りるだけで、ショッピング枠…1200円
- キャッシング枠…1500円
こういう利息ですから。わずか10万円の借り入れで、これです。その「48倍」の借り入れでも、奨学金は上のような少額の利息しかかからない…ということですね。
奨学金の利息の計算方法について
下の「Ke!san」というカシオがやっているサイトで、簡単にシミュレーションできます(初期設定の金利が「3.0%」になっているので、そのまま計算すると、大内教授と同じ計算結果になってしまいますが)
http://keisan.casio.jp/exec/user/1353139036
そして、そうやって計算ができたら―。
- 「返済総額」から、「貸与総額(480万円)」を引く
- それで「利息」の総額」が出る
- それを「240」で割る(12ヶ月×20年なので)
- これで「月々の利息」が出る
10万円や46万円の利息を「240」で割るんですから、それは小銭になりますよね。
「年配の人が、あまりに事情を知らない」
さらに大内教授のコメントの要約を続けると―。
- 年配の人が、実情を知らない
- (学費が高いなら)国立大学に行けばいい
- …ということをいまだに言っている
とのこと。これは全面的に賛同します。うちの両親(60代)もそうでしたが、親は、現代の教育の現場のことを、何も知らない状態です。(いつの時代の親も、もしかしたらそうだったかも知れませんが)
「特に父親が知らないことが多い」
これも要約すると下のようになります。
- 日本は、子供の教育が母親任せになっている
- だから、特に父親がこの事実を知らないことが多い
とのこと。これもまったくその通りです。教育のことだけでなく家計のこと全般を、父親が把握していない家庭というのも、結構あるようです。(実はうちもそうだったのですが)
これはそうした家庭の「父親」だけの問題ではなく―。
- 日本人全員が、そもそも「お金の話」にうとすぎる
と私は感じます。お金の話に疎いので、これだけの借金をしてまで、大学に通う意味があるのか?ということも、わかっていないわけです。
中曽根政権以後の、奨学金の歴史
ここから大内教授のコメントは「奨学金の歴史」の話に移ります。
- 1984年の中曽根政権で、「日本育英会法」が改正された
- これで「有利子制度」が導入された
- その後、橋本政権で、「無利子枠」が拡大された
- 小泉政権で「日本育英会→日本学生支援機構」になった
橋本政権の「無利子枠が拡大された」というのは、学生にとっては有利でしょう。
大内裕和教授はその後「奨学金制度の悪化は、ここ数年で激変し」と言われていますが、これは、下の通りです。
- 中曽根政権…有利子制度
- 小泉政権…「日本学生支援機構に変わった」
この2点を指しているのでしょう。そして、下のように言えます。
- 有利子…負担が大きくなる(これはわかる)
- 支援機構に代わる→?
と誰でも思うはずなので、育英会が、日本学生支援機構に変わって、どんな違いが生まれたのか、どう変わったのかを調べました。
育英会→支援機構で、どう変わった?
All Aboutが出版した『大学生が利用できる奨学金の基礎知識』によれば、下の通りです(引用)。
大ざっぱに言えば、日本育英会が「日本学生支援機構」に名称が変わったと考えてもいいでしょう。
つまり「名前が変わっただけ」ということです(All Aboutが「大雑把に」書く分には)。
書かれている内容を箇条書きすると下のようになります。
- 日本学生支援機構は、「2004年」に成立された、「文部科学省」所管の、「独立行政法人」である
このようになるわけです。
- 永らく国の奨学金制度を運営してきた、「日本育英会」から事業を引き継いだ
つまり前後の文章を読んでも「名前が変わった」ことしか書かれていません。そして、文科省のページも見て見ましょう。
「制度の枠組みは、これまでと変わりません」(文科省)
下のページに「日本育英会が日本学生支援機構に変わって、どういう違いが生まれるのか」という説明がされています。
- 独立行政法人日本学生支援機構の設立について(文科省)
- http://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/ryugaku/1366859.htm
そして、引用すると下のようになります。
日本人学生に対する奨学金の種類や貸与基準、貸与利率など制度の基本的な枠組みは、これまでと変わりません。
となっています。それも「下線でしっかり強調」されています。
「日本人学生」と書かれているので、「外国人は?」と思うでしょうが、この点について説明すると下のようになります。
- 外国人留学生については、「日本育英会」ではなく「国」が支援をしていた
- それを「日本学生支援機構」に統合する
- だから、「日本育英会とは違う」ということ
こちらの内容も、特に大幅には変わっていないでしょう。(日本人学生の方が、全く変わっていないので)
「奨学金制度の悪化」とは、何を指しているのか?
つまり、大内教授は「ここ数年で奨学金制度が悪化し…」というコメントの前に―。
- 中曽根
- 橋本
- 小泉
の3政権での変更を挙げられたわけですが―。
- 橋本…無利子枠拡大(これは学生に有利)
- 小泉…日本学生支援機構に変更(学生にとって、違いはない)
こういうことで、この2つの政権に関しては、学生に有利か、あるいは変わりなしとなるわけです。つまり「関係ない話題が、2つあった」わけです。
唯一、「中曽根政権で、有利子になった」ということだけは、学生に取って不利です。なので、大内教授のコメントの「3政権」の中では、「ここだけ見れば」OKということですね。
「新自由主義の深まりと同時進行」
さらに大内教授のコメントでは「(奨学金の悪化は)新自由主義の深まりと同時進行」となっています。新自由主義とは、下のように言えます。
- 「個人の自由」と「市場原理」を重視し、「政府の介入」は、極力しない
要は「さらに自由経済に」ということですね。そして、日本では―。
- 中曽根政権から始まる
- 小泉政権で全盛期
そして、小泉時代から、日本の経済格差が目立ってきた(ように見える)ので、「新自由主義=弱い者いじめ」のように思っている人がいます。
これはその通りかも知れませんが、下のような指摘もできます。
これまでの日本が「鎖国」状態だっただけ
経済学では有名な言葉ですが、日本は、世界でもっとも成功した社会主義国という言葉があります。戦後の日本で常識になっていた―。
- 年功序列
- 終身雇用
の二本柱を、これだけ長期間・広範囲で維持できた国はないんですね。
そして、この二つが維持されると、当然―。
- 無能な上司が、いつまでも上にいるので、今の中年の方々が若い頃は、「何であんな課長が…」と文句を言っていた
これは正しい感覚です。そして、下のように言えます。
- 時代が進んで、日本の市場が世界に解放され始めた
- そうなると、日本企業は「世界の企業と競争」することになる
- となると、「ダメな上司」をいつまでも上には置いておけない
- どんどん淘汰していく
- ↑(しない企業は、企業ごと潰れるだけ)
よく考えると鎖国が終わって、会社が正しい方向に向かっているだけなのです。今の年配の方々が若い頃に言っていた「なんで、あんな上司が上でのさばってるわけ?」という疑問が、解決されたわけですね。「望み通り」の世界になったわけです。
(事実、年配の方々でも新自由主義を肯定している方は、たくさんいます)
新自由主義と、奨学金の関わり
上に書いたように、新自由主義で競争が激しくなったわけですが、これと奨学金の関わりを箇条書きすると下のようになります。
- もう「実力」がすべての世界になった
- ↑(実力には「精神力」など、人格も含む)
- だから「学歴」の必要性が薄れた
- ↑(そもそも、1966年にソニー共同創業者の盛田昭夫氏が『学歴無用論』というベストセラーを書いていた)
このようになるわけです。
- もともと仕事に「学歴」なんて必要なくて、今までの日本が「歪んでいた」だけ
- それが「国際社会の競争」にさらされ、(ドラッカーの言葉だと「表の風に吹かれて」)
- 「正しい競争」ができるようになった
と私は考えます。反面、下のように言えます。
- 「大卒」の価値は低下したので、これまでのように「数百万円」の学費を払う価値もなくなった
- だから、それを「借金」でまかなう奨学金は、もう意味がなくなっている
このようになるわけです。
奨学金が悪いのではなく「大学進学」が悪い
- 奨学金…間違ってない
- 大学進学…間違っている
本来の問題はもう「大卒」の価値がなくなっているのに、いまだに大学に進学する人がいることなのです。
もちろん―。
- すべての大学が無価値ではないし、「大学で勉強するべきタイプの人」もいるが、少なくとも「今の進学率は、高すぎる」ということ
そして、その進学した学生たちが、勉強しているのかといったら、していないわけですからね。私も学生時代は正直あまり勉強していなかったので、人のことは言えませんが。
独立してお仕事をいただいている今では、かなり勉強しています。それは―。
- 生きるために絶対にやらないといけないし、そもそも「収入がどんどん増えていくので、嬉しい」
からです。つまり「義務」と「楽しみ」の両方があるわけです。そして、下のように言えます。
- そうやって毎日ひたすら仕事していると、人間の脳や体は激変していくので、以前の自分の数倍のスピード・質で仕事ができるようになり、さらに楽しくなってのめり込む
こういう状態になっています。今の私は。なので、あくまで個人的な経験からですが人間は、とにかく仕事をした方がいいと思っています。
- できれば「成果報酬」の仕事(起業など)で、やればやるほど稼げる、という状態になるのがいい
と思っています。もともと、戦後の日本人の「働き方」が「ほとんど社会主義」だったのだから、その常識は全部無視してしまっていいのです。
高校教師でも、奨学金のことをよく知らない
そして、『週刊金曜日』の記事では、次に元高校教諭の女性のコメントも紹介されています。要約すると下のようになります。
- 実際は「ローン」なのに、「奨学金」という名前でみんな勘違いしている
- この実態を、高校教諭もよく知らない
これは「さもありなん」と思います。そもそも―。
- 学校の先生は「学校」以外の職場で働いたことが、ほぼない
- だから、奨学金に限らず「お金のこと」を何も知らない
- (それぞれの分野や、教え方に関してのレベルは高いが)
こういうことで、そもそも学校の先生に、お金のことを聞いてはダメなのです。先生が「奨学金があるから大丈夫」と言っても、信用してはいけないのは当然なんですね。
お金の話は、そもそも自分で勉強しなければいけない
これは別に「相手が先生の時」だけではなく―。
- 相手が銀行員でも、弁護士でも、親でも、お金の話については、歪んだ情報が飛び交いまくっているので、自分で勉強して、自分で考えるしかない
ドストエフスキーが言うように貨幣は鋳造された自由なので、「自由=ほぼ命と同様」です。命に近い情報ですから―。
- それをたくさん得ようとして、人も企業もいくらでも嘘をつくし、得られなかった妬みで、間違った情報を歓迎する人が多いし、↑(たとえば、金持ちは全員性格が悪い、など)
このようにお金に関する情報は、特に正しい事実が伝わりにくいのです。なので、常に「自分の頭で考える」しかないんですね。
だから「学校の先生を責めている」わけではありません。「日本人全員、もっとお金のことを勉強するべき」ということです。
日本学生支援機構がなぜ「サラ金より悪質」なのか?
『週刊金曜日』の記事の最後で書かれているのは、聖学院大学・柴田武男教授のコメントです。
- 日本学生支援機構は、サラ金より悪質とも言えるが、日本育英会が母体なので、みんな信用してしまっている
この記事では書かれていませんが、柴田武男教授の他の論文などを読むと―。
- 奨学金は「入口と出口」がおかしい
- つまり「貸付」と「返済」がずれている
何がずれているのかというと、下の通りです。
- 貸付…お金が「ない」人に貸す
- 返済…お金が「ある」人でないと不利
これは一理あります。
- 奨学金は「裕福」だと借りられない
- だから、借りる人は「お金がない」学生である
- ↑(少なくとも、自力で全額は払えない)
- にも関わらず、「その後の返済」は厳しく求める
確かにこれは一理ありますが…。
どちらも「必然的に」そうなる
そもそも、奨学金である以上「お金がない学生に貸す」のは当たり前です。これはいいでしょう。となると、修正できるとしたら返済をどう求めるかですが―。
- 返済しない人が増えたら、奨学金の運営自体が成り立たないので、奨学金自体が消滅してしまう
そして、下のように言えます。
- いや、日本学生支援機構は「利益」を出している
- 2010年は利息収入だけで、232億円稼いでいる
- だから、この分全部、無利子にすればいい
こういう論調も成り立つでしょう。確かに―。
- 「運営経費だけ」最低限利息をもらうようにして、極力無利子か、超低利子(今でも超低利子ですが)で融資する
こういう方法は可能です。ただ、そうなると―。
- 日本学生支援機構に就職しても、お給料は増えない
- 要するに「NPOに就職する」ようなもの
- それだと「結婚して子供を養う」のは、厳しい
- となると、ほとんど人材が集まらない
結果的に、奨学金の規模はかなり縮小されるでしょう。
もちろん「縮小してもいい」なら、返済や金利の条件をゆるくしてもいいと思います。実際、私自身も奨学金というより、大学進学の規模自体が、もっと小さくなるべきでは?と思っています。
朝日新聞デジタル「学生の貧困」特集より
次に、大学生が今どういう状況なのか、朝日新聞デジタルの記事の内容も紹介します。
- 『脱・貧困のための進学が… 授業料高騰、重い奨学金返済』
- 朝日新聞デジタル(2014年11月25日)
- http://www.asahi.com/articles/ASGCS64WPGCSUTIL01V.html
- (全文を読むには、会員登録が必要ですが、無料です)
以下、内容の紹介です。
「貧困と東大」
このタイトルは、現在大手メーカーに勤務する男性が、東大生だった2009年に、研究テーマとして掲げたもの。つまり貧困層で、東大に進学できた人がどれだけいるかということ。箇条書きすると下のようになります。
- 東大生の親の年収は、過半数が「950万円以上」
- しかし、学生寮で生活している東大生だと、49人中、15人の学生が、親の年収が「300万円未満」だった
このようになるわけです。
彼らはどうやって、東大に入ったのか?
この男性本人も「母子家庭」の出身で東京の大学に行かせるお金はないと、親御さんから反対されていました。しかし、下のようにも言えます。
- 中学・高校の先生に奨学金や授業料免除の制度を教えてもらい、大学の授業料は「免除」を獲得し、大学院も「給付型奨学金」(返済しなくていい)を得て、進学した
つまり「ひたすら奨学金」でやってきたのですが、それができた理由を男性ご本人は―。
- 制度を教えてくれた先生
- 一緒に東大を目指した仲間
を理由にあげられています。「中学時代は、大学進学も考えていなかった」というくらいなので、決して「神童」ではなかったはずです。(秀才だったら、大学進学くらいは考えるはずなので)
この事実は、何を意味するのか?
朝日新聞デジタルの記事では―。
- この男性の例と、大学生による、貧困家庭への家庭教師のボランティア
を紹介したあと、方向が全く変わることを書いています。(否定しているわけではありません)
- このように「貧しくても未来を切り開く鍵になる」のが教育だった
- しかし、今、その「教育の平等」が揺らいでいる
(つまり、上の男性のように「努力で貧困を抜け出せる」人が、減りつつある、ということです)
そして、どう「教育格差」が広がっているのか、その実例が紹介されています。
バイトを掛け持ちしないと、大学に通えない
次に紹介されているのは「私立大学に通う、20才の女子大生」のケースです。箇条書きすると下のようになります。
- 母親は50才で保育士
- 非正規雇用なので、月収は約13万円
- 子供は2人
こういうのが家庭の状況。そして、この女子大生の進学状況は―。
- 高校は公立
- その時から「貸与型の奨学金」を借りた
- 大学では「奨学金を2つ」借りた
- すべて合計すると、大学卒業時の残高は「260万円」になる
「私立の四年制大学で、卒業まで260万円なら安くない?」と思った人もいるでしょう。私立だったら下のようになります。
- 年間の授業料は、大体100万円
- なので、授業料だけで「400万円」
- それに入学金や諸経費がかかるので、総額で「450万円~500万円」程度はかかる
こういうのが普通だからです。ただ、これはおそらく4年間アルバイトをしながら返済して、それでもこれだけ=260万円残るという意味でしょう。そして、そのアルバイトですが、これはかなりハードです。
朝5時に起きて、夜中まで勉強とバイト
この女子大生の生活を箇条書きすると下のようになります。
- アルバイトは、レジ打ちなどを2つ掛け持ち
- 朝5時に起きて、深夜まで勉強とバイトをしている
当然友達と遊ぶこともできないので、「もう大学を辞めたい」と親にこぼしているそうです(誰でもそうなるでしょう)。
そして、親御さんとしては、下の通りです。
- やめさせてあげたいが、今やめたら、すでに抱えている150万円の借金はどうなるのか
こういう不安が残る…ということです。要は「150万円を短期間で稼ぐ自信」があれば、親御さんも女子大生も、すぐに「やめる」という決断ができるのでしょうが…。普通だと難しいですよね。
私立大学は、富裕層しか行ってはいけない
私自身私立大学の出身で、後半の学費は自分で払ったのでよくわかりますが、「私立大学の学費は、本当に高い」です。そして高い割に、それに見合うリターンがないというのも事実です(あくまで、金銭的なリターンの話です)。
- 学費が高い割に、高収入を得られる仕事にはつけない
- というより、私立大学だけではなく、大学全般が、もうそうなっている
このようになるわけです。
- もう大学自体が、「学費を回収できる価値」を持たなくなっているのに、まして「私立大学」では、ますます厳しくなる
これは実際に統計を見ても、そう言えます。
私立大卒は、早稲田でも平均年収が低い
まず「卒業大学別の、平均年収ランキング」を見てみましょう。
- 「学歴別」平均年収ランキング(プレジデント・オンライン)
- http://president.jp/articles/-/17213
どんな調査かカンタンに書くと下の通りです。
- 2013年~2014年のもので、転職サービス「DODA」の調査によるもの
そして、金額は省略し「国立・公立・私立」だけを書いていきます。(以下、上位ベストテンの一覧です)
- 東京大学…国
- 一橋大学…国
- 東京工業大学…国
- 京都大学…国
- 慶応義塾大学…私
- 電気通信大学…国
- 首都大学東京…公
- 北海道大学…国
- 東北大学…国
- 防衛大学校…(区分なし)
となります。つまり、ベストテンのうち、私立は「慶応だけ」なんですね。あとは全部国公立なのです。(防衛大学校は「自衛隊そのもの」なので、区分がありませんが、ほぼ国立のようなものです)
- 早稲田
- 立教
- 明治
- 同志社
- 中央
- 日大
- 法政
- 青山学院
このように、この辺りでも「ベストテンに入れない」わけですね。入れないだけでなく―。
- 電気通信大学
- 首都大学東京
など、大学に疎い人だと「どこそれ」という大学にも負けているのです。そして、この電気通信大学の平均年収が高い理由を調べると、「進学とお金」のヒントが見えてきます。
「技術系大学」は、大企業就職率が高い
別の統計を見てみると、「大企業就職率ランキング・ベスト10」というのもあります。
- 一橋大学
- 東京工業大学
- 豊田工業大学
- 慶應義塾大学
- 国際教養大学
- 電気通信大学
- 早稲田大学
- 大阪大学
- 東京外国語大学
- 九州工業大学
■ 参考サイト
- 『大企業就職率大学ランキング(2015年3月卒業生)』
- 社会実情データ図録
- http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/3865.html
まず電気通信大学が6位に入っています。そして、技術系の躍進を見ると、下のようになります。
- 2位…東京工業大学
- 3位…豊田工業大学
- 6位…電気通信大学
- 10位…九州工業大学
「10位中4つだけ」と思うかも知れませんが―。
- 当然、他の大学も「理系」が半分程度である
- ↑(東京外国語大学は例外だが)
- 上の4つの大学は「理系だけ」である
このようになるわけです。
- 「理系だけ」の大学が4割なら、残りの6割を、文系と理系で分け合うわけだから、それぞれ「3割」になって、理系…7割、文系…3割
つまり大企業に就職するのは、「7割が理系」ということです。
3位「豊田工業大学」が物語るもの
これは言うまでもなく「トヨタ自動車」に就職しているわけですが、これが何を語っているのか。多くの人が気づくでしょうが、彼らは「トヨタで働くための勉強」をしてきた、ということです。つまり「仕事のための勉強」をしてきたわけですね。
社会に出ると多くの人が実感することですが―。
- 結局、仕事で成果を出せる人になるには、ひたすら仕事をするしかない
- その仕事で「必要な能力」というのは、「その仕事をすることでしか」身につかない
「読書が大事」とか「幅広い付き合いが…」とか言う人は―。
- ①…そういう視点が必要な「経営者」「投資家」
- ②…「教養をすすめるのが仕事」という人
- ③…仕事で結果を出していない人
の3通りです。①、②は仕事上の必要があって、そうしているので、これは正しいです。③の人は、「学び」というものを、少々考えなおした方がいいでしょう。
『学問のすすめ』も「実学」を勧めている
「理系が就職に強いのは、実学だから」というと当たり前と感じるでしょうが、福沢諭吉の『学問のすすめ』も、そういう内容だったと言ったらどうでしょうか。これは知らない人が多いはずです。
(学校の先生が「役に立たない学問も含めた(というかむしろそっちの)ススメ」だと思って、教えているからですね)
福沢諭吉が実学をどう推奨しているのか、『学問のすすめ』の原文で、引用しながら、口語訳していきます。
■ 参考サイト
- 青空文庫『学問のすすめ』
- http://www.aozora.gr.jp/cards/000296/files/47061_29420.html
*太字部分が、口語訳です。
かかる実なき学問はまず次にし、もっぱら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。
そのような「実用性のない学問」は後にしなさい。今やるべきは「実学」です。
そして、「そのような」というのはどのような学問かというと下のようになります。
ただむずかしき字を知り、解げし難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、
これは訳さなくてもいいでしょう。現代でいうなら―。
- 漢字検定
- 古文・漢文
- 和歌・詩作
などは「学問と呼ばない」と言っているわけですね。福沢諭吉は。もちろん、完全否定しているわけではなく―。
これらの文学もおのずから人の心を悦よろこばしめずいぶん調法なるものなれども、
これらも、確かに人の心を豊かにするし、格調高いものではあります。
…と認めています。しかし―。
さまであがめ貴とうとむべきものにあらず。
世間がいうほど、立派なものでもない。
これについては、たとえばマザーテレサも、似たような名言を残しています。
マザーテレサの名言と、『学問のすすめ』の共通点
マザーテレサの名言では、こういうものがあります。
「祈りのために、仕事を止める必要はありません。仕事が祈りであるかのように、続ければいいのです」
これは下のような意味です。
- 「人として大切なこと」を考えるために、「仕事を離れて学ぶ」必要はありません。
- 「仕事の中から、人として大切なこと」を学べばいいのです。
マザーテレサはキリスト教ですが、ヒンドゥー教にとっての聖書『バガヴァッド・ギーター』でも、まったく同じことを言っているので、それを紹介します。
(学生が、何のために奨学金という借金をしてまで、大学に行くのか、行く意味はあるのか、という根源に関わることなので。キャッシングの情報サイトとしては、少々異色の内容ですが)
学業と労働のヒント『バガヴァッド・ギーター』
まず、どんな書物か紹介します。
- ヒンドゥー教を代表する聖典
- キリスト教の聖書についで「世界で二番目に読まれる聖典」と言われる
- 叙事詩マハーバーラタ(世界史で習う)の中にある
こういう書物で―。
- インド独立の父、マハトマ・ガンジーも
- 「スピリチュアル・ディクショナリー」(魂の書)として讃えた
こういうことでも知られています。そして、内容は下の通りです。
- 戦場の真ん中で、戦うことに迷った将軍が、神に相談したら、神が「迷わず戦い、殺しなさい」と言った
こういうストーリー(長編の詩)です。もう少し詳しく書くと、下のようになります。
- 兄弟・親族を二分した戦争で、片方の将軍・アルジュナが、戦うことに迷う
- そして、戦場の真ん中で神・クリシュナに救いを求める
- クリシュナは「武士としての義務を遂行し、殺しなさい」と言った
というもの。そして、これだけ見ると「残酷」とか「テロリストを正当化する」と思う人も多いでしょう。しかし、そうではありません。
生きるということは「他者を殺す」ことである
クリシュナが言ったのは―。
- すべての生き物が「誰か」を殺して生きている
- それは罪深いことではなく「生の必然」である
- 殺された者もまた、殺した者の中で生きている
- 人の体の中では、彼が殺した植物も動物も、生きている
つまり、生きるために動植物を殺しているのに、どうして人間を殺すことだけ、ためらうのかというわけですね。それに―。
- 「殺す」と「生きる」は同義であり、「命をつないでいく」ために必要なことなのだから、恥じることも、懺悔することもない
「いただきます」の語源が「命をいただきます」である、というのと同じですね。
ギーターでは、これを下のように書いています。
殺しや競争を悪だと思うのは、不勉強である
生物が他を殺す また殺されると思うのは
彼らが生者の実相を知らないからだ
― 2章19 ―
「生者の実相」というのは、理科の言葉でいうと「食物連鎖」ですね。「食物連鎖=弱肉強食」と勘違いしている人がいますが、あれは詩的に言うと「命のリレー」なのです。ミツカンのフレーズの「やがて、命に変わるもの」という言葉どおりです。「食品=殺された動植物」は、我々の命になり、やがて生まれる子供の命にもなっていくわけです。
(すでにお子さんが生まれた方も多いでしょうが。笑)
生まれたものは必ず死に
死んだものは必ず生まれる
必然 不可避のことを嘆かずに
自分の義務を遂行しなさい
― 2章27 ―
この「自分の義務」というのは、主人公のアルジュナの場合、「戦って、敵を殺す」ことです。「社会貢献をしたい」という昨今の大学生からすると、これは「あり得ない」考えでしょう。しかし―。
君は博識なことを話すが
悲しむ値打ちのないことを嘆いている
― 2章11 ―
と、ギーターは喝破しています。
真理を学んだ賢い人は
生者のためにも死者のためにも悲しまない
― 2章11 ―
平たく言うと「誰かを傷つける仕事、傷つけない仕事」があると思う時点で、本当に深く、ものを考えたことがないということです。
(たとえば、戦後に日本が発展したのも、「①…朝鮮戦争があった」「②…中国で共産党が政権を取ったので、アメリカが中国を封じるために、日本に接近した」という背景があります。*共産党@毛沢東の失政で、中国が荒廃したのは知っての通りです。日本の戦後の発展は、中国の民衆の犠牲の上に立っていたのです)
その戦いが「正しいなら」戦えばいい
武士階級の義務から考えても
ダルマ(正義)を護るための戦いに
参加する以上の善事はないのに
どこに ためらう必要があるのか
― 2章31 ―
簡単に書くと、下のようになります。
- 武士が正しいわけではない
- しかし、アルジュナは武士である
- そして、一定の正義がある戦いなら(ここが重要)
- これはもう、戦うしかない
- なのに、何を迷うのか
クリシュナが戦えと言ったのは、あくまで、この戦いに「一定の正義」があるからです。つまり、学問というのは―。
- 「戦わない」ためではなく、「正義とは何か」を考えるためにある
そして、考えた結果「戦うしかない」となったら、戦うべきなんですね。そこで戦わないのは「甘え」ということです。
生きるためには、働くしかないのだ
好むと好まざるとにかかわらず
物質自然の性質から来る推進力で
ただの一瞬といえども
活動せずにはいられないのだ
― 3章5 ―
これは生きるには、働くしかないということです。当たり前ですね。
- 「物質自然の性質から来る推進力」というのは、要するに「三大欲求」
のことです。
- 良いか悪いかは別にして、人はそういう本能を持って、生まれてきた
このようになるわけです。
- 今あれこれ考えている自分の「脳」があるのだって、極端な話、親に性欲や食欲・睡眠欲があったからで、彼らがその欲を持ってくれていたから、今、自分の体がある
もちろん、そうやって「生まれたことが嫌なんだ」と思う人もいるでしょう。「生まれた」は、日本語でも英語(I was born)でも「受身形」ですからね。(国語の教科書にもある、有名な詩ですが)
しかし、じゃあ自殺できるかというと、正常な人間だったら、絶対にためらうんですね(ためらう方が正しいのです)。
人の体は、どんな時も「生きようとする」ようにできている。その「推進力」を「敵にするより、味方にした方がいい」と、ギーターは説くわけです。
働いて、王侯の栄華を楽しめ
世の人々は仕事の成功と果報を求めて
さまざまな神々を拝んで それを願う
― 4章12 ―
太字の部分を読むと、「この後、否定の言葉が続くな」と思うでしょう。何しろ「聖典」ですからね。しかし、逆です。
このようにして働けば速くたやすく
物質界の果報は得られるのだ
― 4章12 ―
そうやって働け。働けば、早く簡単に成功を得られるのだと言っているわけです。
勝てば地上で王侯の栄華を楽しむのだ
さあ 立ち上がって戦う決心をしなさい
― 2章37 ―
つまり、戦って「王侯の栄華を得る」ことを、肯定しているのです。もちろん、これは「酒池肉林」を勧めているわけではありません。
成功してなお、正しい生活をせよ
アルジュナよ ヨガ(正しい生き方)を行ずるには
あまり多く食べ過ぎてはいけない
また少食に過ぎてもいけない
眠り過ぎても 睡眠不足でもいけない
― 6章16 ―
つまり成功せよ。しかし、成功してさらに「正しい生活」をせよ。と説いているわけです。
たとえば『心を整える』の長谷部選手は「年俸5億円」ですが、知っての通り「超がつく、真面目な人生」を歩んでいます。投資家のウォーレン・バフェットなども同じです。
(バフェットの場合、食生活は正しくないですが…。笑)
食べること 眠ること 仕事すること
また休養や 娯楽についても
節度ある習慣をもてば ヨガの実修により
物質的苦悩をすべて除くことができる
― 6章17 ―
そして、こうした「苦痛を排する」ことの正しさを、下のように書いています。
「苦しい人生」は間違いである
― 6章46 ―
ヨーギーは苦行者より偉大である
ヨーギーは哲学者より偉大である
- やたら「苦行」したり、やたら「生きる意味」を考えたりするより、子供のように、喜んで食べ、喜んで眠り、喜んで仕事をするのが正しい
たとえばブッダも断食の修行をしていましたが―。
- 死にそうなブッダを見て、村の娘のスジャータが、乳粥を食べさせた
- ブッダはそのあまりの美味しさに感激し、「人は食べなければいけない」と気づいた
「当たり前だろ」と思うかも知れませんが―。
- 自分が生きるために動植物を殺す
- 「それでいいのか?」と断食してみたけど、死にそうな体で食べた乳粥は、あまりに美味しかった
- これだけ美味しいのは「それが正しいことだから」だろう
こういうわけです。もちろん、難しいことは何もわからないスジャータが、単純に自分を心配して食べさせてくれたという「気持ち」も嬉しかったでしょう。植物の立場からしたら―。
- スジャータは、米などの植物を殺し、それをブッダに食べさせた
こういうことになりますが「だからスジャータは悪人だ」などと思う人は、一人もいないでしょう。植物や、乳を絞られた牛だって、そうは思わないはずです。
マザーテレサは―。
いかにいい仕事をしたかより、どれだけ心を込めたかです
と言いましたが、食べるにしても寝るにしても、働くにしても、どんな気持ちでそれをしたかに尽きるわけです。
このように、少々ギーターから離れましたが、再びギーターに戻りましょう。
仕事をしないより、した方がいい
定められた義務を仕遂げる方が
仕事をしないより、はるかに善い
働かなければ自分の肉体を
維持することさえできないだろう
― 3章8 ―
まさに現代人に向けて語ったような言葉ですが―。
- 昔から「労働」はあったし、むしろ今より「楽しい仕事」が少なかった
- ↑(水汲みとか薪割りとか「誰でもできる」仕事しかなかった)
こういうことを考えれば昔の人も、こういうことを考えていたというのは、むしろ当たり前なのです。
悟りは俗世で開くもの
仕事を避けて、何もしないでいても
人間はカルマから解放されない
出家遁世したからといって
完成の境地に達するわけでもない
― 3章4 ―
これを中国古典の『菜根譚』では、こう書いています。
雅なりといえども、俗を離るること能わず。(後集86条)
これは「人の世の真理は、世俗の現実の中でしか得られない」という意味です。確かに「研究室や、キャンパスの中ですべき学問」もあるのですが、基本的には「本当の学びは、仕事をして、生きる中にある」ということです。
松下幸之助との共通点
故に仕事の結果に執着することなく
ただ為すべき義務として それを行え
執着心なく働くことによって
人は至上者(神)のもとに行けるのである
― 3章19 ―
この「なすべき義務」ですが、たとえば松下幸之助は、経営者になる前は「電気工」でした。そして、その頃は「電気工として働くのが、当たり前だと思っていた」といいます。これは、下の通りです。
- 「自分はどうせ電気工」みたいな「卑下した意味」ではなく、子供が「自分が幼稚園に通っていることを、不思議に思わない」ように、まったく普通に「当たり前」だと感じていた
だからストレスなく仕事ができたわけですね。
仕事を「義務」でなく「天職」と思う
仕事を至上者(神)への供物としなければ
仕事は人を物質界(この世)に縛りつける
故にクンティーの息子よ 仕事の結果を
ただ至上者へ捧げるために活動せよ
― 3章9 ―
「生きるためには、働かなければいけない」というギーターですが、嫌々働けとは言っていません。この言葉は、先ほどのマザーテレサの言葉とまったく同じで―。
- 仕事を「仕事」としてするのではなく、「祈り」のようにする
「祈り」というと抵抗があると思いますが、下のように言えます。
- 自分の「作品」と思って取り組む、とか
- 要は「自分の生きる道と一致する部分」を探し出し、「あくまで自分の道のために」その仕事をする
これは一歩間違うと「ブラック企業」になるのですが、「ギリギリまともな世界」に残れた人が「資本主義の成功者」なのです。
これは、マックス・ウェーバーの代表作『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』にも書かれていることで、要約すると、下のようになります。
- 資本主義を拡大させたのは、「快楽主義者」だと思われているが、それは違う
- 資本主義は「禁欲的な宗教=プロテスタンティズム」が、支配する地域で、拡大してきた
このようになるわけです。
- 資本家も労働者も、自分の仕事を「天職」と考え、脇目も振らずにそれに邁進した結果、資本主義は拡大した
このようになるわけです。
- 資本主義の始まり…18世紀
- 『バガヴァッド・ギーター』…紀元前5世紀
このように実に「2300年」の開きがありますが、まったく同じことを言っているわけですね。
以下、「仕事」に関する部分を引用していきます。
仕事以外でも、悟りが開けないわけではないが…
仕事の放棄も 奉仕活動(仕事)も
ともに人を解脱へと導く
だが この二つのうちでは
奉仕活動の方が勝っている
― 5章2 ―
つまり「仕事以外の道」も否定していない(諭吉と同じ)ですが、どちらかというと、人間は仕事をした方がいいと言っているのです。
これは精神医学の世界では森田療法の「とりあえず働く。働いているうちに治る」という考え方と一緒です。
(これは乱暴なようですが、4年間ニートをしていた私から言わせると、真実です。逆方向で確かめたので。笑)
仕事は、完璧でなくてもいい
自分の義務が完全にできなくても
他人の義務を完全に行うより善い
天性によって定められた仕事をしていれば
人は罪を犯さないでいられる
― 18章-47 ―
「とりあえず働け」というと「鬱を悪化させるだけじゃないか?」と思うでしょう。しかし、ギーターや森田療法の考えでは―。
- 仕事は本来「そんなに辛いもの」ではない
- 「完璧にやろうとする」から辛くなる
森田療法は「あるがまま」という考えすら、どうでもいいという主張をします。(「あるがまま」なんて考えるから、「そうならないといけない」と思ってしまう、ということですね。緊張するならするで、いいじゃないか、ということです)
つまり「老荘思想」の「無為自然」に近いわけです。この―。
- 仕事を「天職」と思え
- しかし、ペースはゆっくりでもいい
こういうことを、ギーターはこう表現しています。
「わずかに進む」だけでいい
この努力には少しの無駄も退歩もなく
この道をわずかに進むだけでも
極めて危険な種類の恐怖から
心身を護ることができるのだ
― 2章40 ―
これは、イチローや錦織圭の言葉だと下のように言えます。
- イチロー「少しずつ前に進んでいるという感覚は、人間としてすごく大事」
- 錦織圭「少しずつ目標を高いところにおいて、徐々に上げっていければいいんじゃないかと思います」
どちらも「少しずつ」がキーワードですが、「天職と思う=無理に頑張る」ことではないのです。
「ペース」だけでなく「やり方」も人それぞれ
わたしに心身を委ねた程度に応じて
わたしは人々に報いる
ブリタ―の息子よ すべての人々は
様々な方角から わたしへの道を進んでいる
― 4章11 ―
太字部分はつまり正しい道は無数にあるという、当たり前のことです。(日本では、あまり当たり前ではないようですが)
そして、しばらく「甘い言葉」が続いたようですが、やはり「天職」には厳しさもあります。
自分の「正しい義務」は捨ててはならない
定められた義務は捨ててはならぬ
もし判断に迷って
義務の遂行を怠るならば
そのような離欲はタマス(惰性)である
― 18章7 ―
もちろん、場合によっては「捨てるべき義務」「断るべき仕事」もあるのですが、それは「絶対に捨ててはいけない仕事を、捨てないため」ということ。そういう意味では、これらの「捨てる」行動も「義務を捨てない」ことなのです。要は下の通りです。
- 「本当の」義務か
- 「どうでもいい」義務か
を見極めろ、ということですね。(ちなみに「学校に通う」というのは、どうでもいい義務だと思います。働く方が大事です)
ジャナカのような王たちでさえ
業務の遂行によって、完成の域に達した
故に世の人々に手本を示すためにも
君は自分の仕事を立派に行いなさい
― 3章20 ―
ジャナカを「イチロー」に置き換えると、わかりやすいでしょう。イチローも「野球の練習はつまらない」と明言しているのですが、それでも「どの大リーガーよりも」真面目にやり続けたわけですね。
「イチローみたいに、立派な仕事じゃないし…」と思うかも知れませんが―。
- 世のほとんどの人は、そう思っている
- つまり、「イチローでは救えない」人がたくさんいる
- そういう人を救うのは「立派な仕事でない人」である
こういうことです(救うというと宗教チックですが「いい刺激を与える」ということです)。
「アメイジング・グレイス」が歌い継がれる理由
世界で一番有名な賛美歌は、おそらく「アメイジング・グレイス」でしょう。この歌は奴隷船の船長だった、ジョン・ニュートンという人が作詞したんですね。
私はかつて、道に迷った。しかし、今は見える。
というこの歌詞の裏には、彼の「暗い過去」があるのです。スラムダンクで言えば、不良だった三井に、共感するファンが多いというのと似ています。
つまり、人間は―。
- 凡人なら凡人で、悪人なら悪人で、それぞれ救える人がいる
スラムダンクの三井は「3Pシューター」ですが、シューターとしては、海南の神とか、山王の松本の方が優れているのです。(三井はスタミナもないし)
それでも三井が好かれるのは「三井が人間らしい」からです。これをキリスト教や仏教では―。
- キリスト教…心が貧しい人は幸いである *マタイ伝5章
- 仏教…悪人正機(悪人こそ救われる)*歎異抄3章
このように表現しています。この「悪人こそ」というのが、どういう「悪人」のことかは、言うまでもないでしょう。(どちらの歴史でも、正真正銘の悪人が、よくこれらの言葉を濫用していたようですが…)
このように、またギーターから離れました。「仕事」に関する部分を引用で締めると―。
自分に与えられた天職の遂行を通じて
あらゆる時処に偏在し
一切万有を展開する「かれ」を礼拝する人は
究極の完成に達するのである
― 18章46 ―
古来より自由になった者たちはすべて
この真理を理解して活動した
ゆえに君も先覚者たちを見習って
この聖なる意識で義務を遂行せよ
― 4章15 ―
「天職として、仕事を遂行すれば、人はむしろ自由になる」ということですね。
わざわざ、宗教に入信する必要はない
ギーターは
- わざわざ宗教に入信しなくても、人間は自分の仕事をすればいい
こういうことも「ハッキリ」と言っています。以下、それを引用します。
(これは、一部の宗教団体の人々にとって、都合が悪いでしょうが)
仕事の結果に執着することなく
ただそれを義務として行う人は
供犠の火を燃やさず祭典を行わずとも
真の出家であり ヨーギーである
― 6章1 ―
探究心の強い求道者は常に
宗教儀礼を励行する者より勝れている
― 6章44 ―
いま君が見ているわたしの姿は
ただヴェーダを学んだだけでは見えない
厳しい苦行や慈善 供犠を重ねても見えない
そうした手段ではわたしの真実の姿は見えないのだ
― 11章53 ―
故にアルジュナよ 常にわたしを想いながら
同時に君の義務である戦いを遂行せよ
― 6章7 ―
宗教の聖典なのに、宗教を否定しているということに、驚く人も多いでしょう。最後で太字にした「わたしを想いながら」というのは、下のように言えるからです。
- 「わたし」というのは、クリシュナなど特定の神のことではなく、「正しさ」のこと
そういう「正しさ」のことを考えていれば「仕事はそのまま、人の道の修行である」ということです。「比叡山の二大苦行」とされる「十二年籠山行」を満行した宮本祖豊氏も、著書『覚悟の力』の中で、「どんなに辛くても十年は続けること。これ、即ち修行なり」と語っています。「比叡山にいなくても、日常の仕事がそのまま修行である」ということです。
苦しければいいわけではない
上の内容だと下のように言えます。
- ワーカホリックとか、ブラック企業を礼賛する
こういう内容と思われるかも知れません。しかし、当然違います。先にも書いた通り、ギーターはあくまで―。
- 苦行や禁欲は、推奨していない
- 「その人にとって自然な仕事」に、「天職として、苦痛なく打ち込む」
こういうことを推奨しているわけです。ワーカホリック・ブラックな労働については、下のように否定しています。
自尊心を満足させ 名誉を得るため
衆人の尊敬や崇拝を受けようとして行う
禁欲や苦行はラジャスのもの―
これは不安定で長続きしない
― 17章18 ―
こういう「無理な努力」をすると、一部の芸能人のように、覚せい剤をやってしまうわけですね。
無知 蒙昧の者がする苦行は
いたずらに自分自身を傷つけ苦しめ
他者をも害し破壊する
これをタマスの苦行と言う
― 17章19 ―
太字部分は、精神医学では「堅いSOC」といいます。箇条書きすると下のようになります。
- SOC=「Sense of Coherence」の略
- 「ストレス対処力」のこと
- 基本的には「数値が高い」方がいい
これらしかし―。
実は、高すぎるSOCは、「堅いSOC」と呼ばれ、あまり良くないとされ、他者のストレッサー(ストレスの原因)になるとも考えられているのです。
■ 引用元
- 渡邉美樹氏とたかの友梨氏の7年前の激白から探る“ブラックの境界線”とは?(ヤフーニュース)
- http://bylines.news.yahoo.co.jp/kawaikaoru/20140917-00039165/
つまり、「堅いSOC=タマスの苦行」と、ギーターでは表現しているわけですね。2500年前の書物なのに、現代の精神医学と、同じことを言っているのです。
- 渡邉美樹氏も、たかの友梨氏も、常人では耐えられない「苦行」に耐えてきたけど、それは「タマスの苦行」であって、自分も他者も破壊してしまう
お二人が「自分も」破壊してしまったかはわかりませんが、社員が破壊されたこと、会社の評判が一気に落ちたことは確かでしょう。
このように―。
- 仕事に「天職」として打ち込むこと、と
- 「ブラックな労働をする」ことは、まったく違う
このようになるわけです。
- 魚が、陸に上がる=ブラックな労働
- 魚が、一日中泳ぎ続ける=天職
天職とは「水を得た魚」になることなんですね。一日中、喜んで泳ぐということです。
『バガヴァッド・ギーター』参考文献
以上、訳文は下の参考文献から引用させていただきました。
- 『神の詩 バガヴァッド・ギーター』
- タオラボブックス(2008/9/15)
- 田中 嫺玉 (著・翻訳)
『バガヴァッド・ギーター』の訳書は、岩波書店の、上村勝彦氏の訳書の方が有名ですが、現代人にとってはこちらの訳書の方が読みやすいので、こちらで引用させていただきました。
まとめ「奨学金を借りてまで、大学に行く意味はない」
私の結論を書くと、奨学金という「借金」をしてまで、大学に行く意味は無い、となります。箇条書きしていくと、下の通りです。
- 奨学金の制度自体は、悪くない
- 日本学生支援機構にも問題はない
- 個別の大学にも、問題はない
じゃあ、何に問題があるのかというと、下の通りです。
- 「大学に行く」という常識そのもの
- あるいは「雇われて働く」という常識そのもの
こうなります。
- 仕事というのは、要は「誰かがやって欲しがっている仕事」を探してきて、それをやって、お金をいただく
ただそれだけの、シンプルなこと…というわけです。(私はカンボジアや南アフリカ・インドなどで生活していましたが、これらの国では、こういう考え方は割と当たり前です。階層にもよりますが。特にカンボジアは、こういう「何か仕事して、稼げばいい」という感覚が強い、と感じました)
なので、下のようになります。
- 大学は行かなくていい
- 何か研究したいことがある人だけ行くべき
- 「遊びに行く」のだったら、勉強しなかった分、後で辛くなることは覚悟しておくべき
あるいは―。
- 奨学金という「借金」をせず、新聞配達などのバイトをして、全額自分で払えばいい
- それなら、返済で苦しむこともない
要は下の通りです。
- 日本学生支援機構とか奨学金の問題ではなく、「個人」の問題である
- 個人が「自分の人生を、どこか他人事のように」思っている
人気マンガの『カイジ』でも、下のような利根川の名言があります(引用)。
いつもどんな時も現実は、
奴らにとって「仮」だからだ
つまり偽物…現実(こんなもの)が、
自分の本当であるはずがない…
奴らはそう思いたいんだ
かなり厳しい言葉ですが、これに該当する人は多いと思います。私もそうかも知れません。(こういう言葉を引用する人に限って、自分がそうだったりするので)
自分の体臭が自分でわからないのと同様、こうやって「私もそうかも知れません」と書きながら、「内心は、全然そう思っていない」という人もたくさんいるので、やはり私もそうかも知れません。
(実際、この一文を書いて、こんな程度でも「うまいこと書いた」などとほくそ笑んでいたりするので)
なので、結局ソクラテスばりに「無知の知」が欲しいという結論になるのですが、何はともあれ、現時点の私の結論は―。
- 奨学金も悪くない
- 日本学生支援機構も悪くない
- 若者は学校に通うこと自体、もうどうでもいいので、もっと働いた方がいい
- 大学に行くにしても、奨学金を借りないか、借りて通うなら、「真剣に勉強する」
ちなみに、以前はまったく意味がわからなかった『仕事は楽しいかね?』というベストセラーの本のタイトルを、今の私はだいぶわかるようになりました。成果報酬をいただくお仕事だからです(少なくとも、私の場合は)。